Posts by: Kiyomi Fukada

青春の恋

まだ中学生の頃、一つの恋をしました。恋を渇望したわけではありませんが、恋の渦に陥いりました。青春時代の恋は欲望という欲望はなく、婚姻関係になりたいなど、思ってもいませんでした。その人を見るたびにうれしくなり、話ができただけで幸せでした。同じクラスメートとして、毎日会えた日々を享受していました。記憶にあるのは、時は炎天下の夏で、シャツを着ながら、部活動で偶然顔を会わせられるよう、遠回りでもして、グランドを回りました。。片隅で片思いだけというはいやでしたので、前に出て、仲良くなろうともしましたが、もちろん付き合ってはくれませんでした。幼い時の淡い恋は叶わないのが普通で、遺憾はありません。単純に人を好きになれたあの年頃だけを懐かしく思います。

大人世界の魅力

私は二十何歳の成人した人ですが、私が思うには、私はまだまだ幼稚で、大人と自称しない方はいいと思います。大人の世界は魅力的で、自由や欲望、誘惑に満ちています。それは抽象的で現実的なものではないことはわかっています。実際の大人の世界は仕事や家族、人間関係でストレスいっぱいなものなのでしょう。しかし、やはり想像せずにはいられません。自由で、能力次第で自分の世界を操れる、そんな大人の世界に陶酔します。都市の輝く夜、カクテル、宿題をしなくてもいい、好きな時間に帰宅し、気に入る本を読む、そんな魅惑的な世界に憧れます。憂いもあるでしょうが、それもきっと小雨のように乾いた空気を潤んでくれるようなものでしょう。そんな精練された日々をゆったりと過ごしたいです。

無言の女帝

中国の唯一の女帝、武則天は元々皇帝の歌姫でした。女でありながら、万難を排除して、たくさんの人から嫌われながら、歯を食いしばって、皇帝までに辿り着きました。今でも、女性がトップに立つのは珍しい。その時代、女性が皇帝になることは常識を覆るものでした。女帝になってからも順風満帆ではありませんでした。一番えらい人になるということは、同伴する人がいないトいう意味もあります。想像できない孤独を味わったこてでしょう。彼女の墳墓の近くに、石碑があります。その上に文字はありません。まるで世の中の人に理解されなくでもいいように。

休暇の過ごし方のすすめ

賢明な休みの過ごし方とはなんでしょう。せっかくの休みですから、色んな所に行って、いろんなことをしたいのでしょう。しかしそれでは緊迫な休暇になりかねません。ぎっしり予定が詰まった慌てる旅行をして、疲れて虚弱な体で学校に戻るのは、とても残念なことです。休みになるとやりたいことが一杯あるのは当然です。しかし、時に予定を少し削る必要もあります。私が思うには、賢い休みの過ごし方とは家に居て、緩やかな時間を過ごすことです。学校の休みとは憩いのための時間であって、普段疲れた頭をリセットするためにあると思います。これを契機によっくりと体や心を休ませることができます。スケジュールに縛られることもないので、焦らず一人の時間を満喫できます。町で鳴る鐘の音を聞きながら、目的地なく散歩するのもいいでしょう。人それぞれの価値観が違いますから、なんともいえませんが、休みの収穫といえば、フレッシュな頭と体で学校に戻れる事だと思います。学校が始まってから、もっと休めばよかったと悔恨の残らないように、休みを楽しみたいです。

記憶についての少しの考え

記憶は嘘をつく。ある本に『記憶力はきっと宇宙人から地球上の生き物への贈り物だ。』と書いてあった。記憶がなければ、文明を築くところか、動物たちすら生きて行けないのである。記憶はこんなに身近にあるにもかかわらず、人類は未だにその正体を完全に暴かしていない。世界が存在するのは記憶があるからと言っても過言ではないと思う。ざぜなら、記憶がなければこの世界自体を認識できないのであって、世界が存在しているかとうかも知らないのである。記憶とはそんな不思議で、奇妙なものだ。そんな趣のあるものが私たちに嘘をつくのだ。沢山の人は経験があるのだろう。自分が覚えていることと本当に発生したこととが違うことがよくある。要は、記憶とは結局、主観的なものに過ぎないのだ。世界が記憶の上に成り立っていると述べたが、もしも記憶が客観的ではなかったら、この世界は自分たちが作り上げた戯れの一つの箇所にすぎないのではないか。しかし、どう見ても、この世の中は立派で、理性や知恵に溢れている。この世の中が美しく、道理が通るように見えるのは私たちの記憶の不完璧性そのものを表していると私は思う。不完全の人間が作り上げたこの不完全の世界にある過ちを、不完全の人間が摘発できるわけがない。それはまるで、単細胞生物が自分は単細胞なんだな、とわからないのとは一緒である。この”宇宙人”から頂いた記憶は完璧ではないかも知れないが、明日の試験の時には是非力を借りたい。

言語を習うということ

自分の母語以外の言語を流暢にしゃべれることを中国では『二つの舌をもっている』といいます。子供の頃は英語をもっと習えと、年配の親戚に『二つめの舌がないと将来出世できないよ!』とよく言われました。あの時は英語を勉強するのは本当に苦痛でした。日本に行ってからも、英語と英会話の授業が一番苦手でした。日本語もろくにできないのに、きらいな英語も勉強しろって言うのはかなり筋が違うと私は思っていました。今でもあの時の気持ちを鮮明に覚えています。ある休暇の朝に、私は寝室の布団の上に横になったまま頭を回転させていました。いつになったら日本語を日本人のように喋れるだろうと、いつになったらクラスでの会話の内容を理解できるようになるのだろうと考えていました。生身の人間が二つもの舌を手に入れられる訳がないし、私は永遠に母語以外の言語を流暢にしゃべることができないという結論にたどり着いた時、私はきっと絶望の淵にいたのだろう。今で考えれば、あの時の私は日本語を上手にしゃべる自分を心の奥底から想像できなかったのです。成功する自分をまったく想像できない時にでも、なんとか辛抱して歩き続くのはとても嘆かわしいことです。でも、実際、今でも日本語は完璧ではありませんが、当時の自分が目標にしていた自分にはなっています。新しい言語を勉強するのは前途多難なことです、時には自信をなくしますし、絶望もします。なぜなら、はっきりとした進歩が見えない時が多いからと思います。でも、例え成功する自分を想像できなくても、尽力に努力を続ければ、七転八倒でも、必ずいつか想像すらできなかった自分になれるはずです。今の私の目標は日本人のように文章を書けることです。もう大人ですし、想像力は随分発達しましたので、新聞記事のような秀作を書けている自分は想像できます。焦らず、コツコツとやれば、必ずいつか目標に達することができると私は信じています。  

中国の迷信

中国には色んな迷信があります。その中では夢に関するものがたくさんあります。例えば、泣け叫ぶほどの凶悪な夢を見た時、その夢が現実にならないように誰かにその夢の内容を言わなければならない。私はこれをただの子供だましだと思いましたが、大人たちはこれを中国人の知恵だと言っています。昔から中国は迷信に依頼していました。例えば、戦争をする時、亀の殻を鋭く磨いたりして、それを使って軍隊を出す日を選びました。中国人は心の奥底から迷信の力を信じていました。今の中国は亀の殻を使うのをやめましたが、大富豪たちが家を購入する時は未だに風水の先生を雇うのだそうです。